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映画ノート

『インサイド・ルーウィン・ディヴィス 名もなき男の歌』のインサイド

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先日、撮影風景とインタビューで構成された『インサイドインサイド・ルーウィン・デイヴィス』というドキュメンタリーを観て、劇場鑑賞以来はじめて、コーエン兄弟の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』を再見しました。

主演は新作『スター・ウォーズ』の新顔オスカー・アイザック
オスカー演じるルーウィン・デイヴィスは60年代初頭グリニッジ・ヴィレッジを中心に活躍したデイヴ・ヴァン・ロンクというフォークシンガーをモデルにしているとのこと。しかし自伝と言うわけではなく、おそらくはボブ・ディラン以前に出ては消えていったシンガーたちをひっくるめた描き方なのでしょう。

再見して新たな発見もあり、大変面白く見たんですが、解釈に困る部分も出てきてしまいました。
そのうち一つはシカゴに向かったロードムービー風のパートは現実か?という点です。

シカゴへの道中、悪夢としか思えないような不運が連続して描かれるからというのもありますが、ジョン・グッドマン演じるローランド・ターナーが『バートン・フィンク』のチャーリーを髣髴させることから、バートン・フィンク同様にとことん行き詰ったルーウィンの心象風景と取るべきなのかと思ったのです。

そうして振り返れば、シカゴのバド・グロスマンが妙に表情がなく、至近距離で対面しルーウィンの曲を聴くところもなにか変だったと思えてきたり・・・
でも、ルーウィンが寝ている傍でシリアル(?)を食べるトロイも妙だったし、猫の名前が途中で変わっているところもあれ?って感じで、色々変なところが出てきます。まぁ、コーエン流のユーモアといえばそうなんですが。

幾度となく、オスカーが眠りから覚めるシーンが描かれるし、窓の外でサイレンのような音が鳴ることも気になる。
もしかしたらロードムービーの部分だけでなく、その前から現実ではなかったのかもしれませんね。
って、勝手な解釈ですけど。

映画は性懲りなく同じことを繰り返すルーウィンを象徴するように、同じシーンを繰り返すループで構成されています
可哀相なオスカー・アイザックは冒頭で何者かに殴られ、ラストシーンでも再び殴られる。
しかし、二度目にはその理由が分かるのが可笑しいですね。

この映画を悲観的なものと見るかどうかについては意見が分かれるところでしょう。
カリスマ ボブ・ディラン登場の歴史的瞬間をルーウィンが打ちのめされるシーンで描くシニカルな演出から、彼のキャリアからすると悲観的と考えるのがふさわしいのかもしれない。

実力があってもその世界を動かす存在になるのは容易なことではなく、
ルーウィンだけでなく、多くのシンガーがディランにノックアウトされたんですよね。

でも、観客はきっとルーウィンを好きにならずにいられない。
根なし草だけど、なんとか中絶代を工面する誠実さがあるし、
自分の子供がいることを知ってちょっぴり嬉しそうにするルーウィンは愛おしくもあります。

コーエン兄弟によると、ルーウィン役にふさわしい歌って演じられる役者をみつけるのには大変苦労したようです。
もう殆ど諦めかけていたところにオスカー・アイザックと出会い、奇跡だと思ったのだとか。
それだけのこだわりに応えるオスカーのギターと歌は本物。
共演者もそれぞれ歌える面々を揃え、音楽の楽しさを味わうことも出来ます。

映画の制作に加わったメンバーたちの名もなき男たちへのリスペクトや慈しみを感じるから
この映画は優しい余韻を残すのでしょうね。